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神戸地方裁判所 昭和59年(行ウ)19号 判決

原告 山本房枝

被告 西宮労働基準監督署長

代理人 小久保孝雄 田原恒幸 森澤茂己

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和五〇年一二月一二日付けで原告に対してなした、労働者災害補償保険法に基づく、遺族補償給付及び葬祭料の不支給処分を取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文第一、二項と同旨

第二当事者の主張

一  原告の主張

1  労災事故の発生

(一) 山本国三郎(大正六年七月二四日生、「以下訴外山本」という。)は、昭和三〇年三月、昭和電極株式会社(変更後の商号株式会社エスイーシー、以下「訴外会社」という。)に入社し、西宮市高須町に所在した工場(以下「西宮工場」という。)において、人造黒鉛電極の原料であるコークス、ピツチ等の粉砕作業又は右粉砕ないし捏合作業に使用する機械の修理作業に従事した。その勤務した作業所ないし所属した作業係名としては、昭和三〇年三月から昭和四一年六月までと昭和四六年六月から昭和四九年一一月までがいずれもいわゆる粉砕工場(原料工場)、その間の昭和四一年六月から昭和四六年六月までが機械修理係である。

(二) 訴外山本は、右勤務期間中において皮膚障害、咳、呼吸困難等の症状を訴えていたが、昭和四八年九月一三日、大阪大学医学部付属病院において診察を受けたところ、当初はタール・ピツチによる皮膚障害及び慢性気管支炎と診断されたが、その後食道癌との診断を受けた。そこで同病院に入院して約一年間治療を受けたが、昭和四九年一一月二日、転医先の加納病院において死亡した。

(三) 訴外山本の死亡原因は、原発性の食道癌である。コールタール、ピツチは、強力な発癌性を有する物質であることは古くから知られている。訴外山本は、前記作業に約一八年間従事することによつて、右発癌物質たるタール・ピツチの微粉やこれらの蒸気に継続的に曝露された結果、右食道癌にり患したものである。

従つて、訴外山本の発病と死亡の業務起因性は明かである。

2  本件処分等の経緯

(一) 原告は、昭和二八年一一月二四日、訴外山本と婚姻した同訴外人の妻であつたものである。

(二) 原告は被告に対し、昭和四九年一二月二七日、訴外山本の前記死亡による労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償給付及び葬祭料の支給の申請をした。これに対し被告は、昭和五〇年一二月一二日付けで右各給付をしない旨の処分(以下本件処分という。)をした。

(三) 原告は右処分を不服として、兵庫県労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同審査官は、昭和五二年八月三一日付けでこれを棄却する旨の審査決定をした。そこで原告は、さらに労働保険審査会に再審査請求をしたが、同請求に対しては昭和五八年一〇月二七日付けをもつてこれを棄却する旨の裁決がなされた。原告は、昭和五九年四月二九日、右裁決書を受け取った。

(四) しかしながら、訴外山本がり患してその結果死亡した食道癌は、以下の理由から同人の前記業務と関連性が認められるから、労働基準法七五条二項、同施行規則三五条、同規則別表第一の二第七号18で定められた「1から17までに掲げるもののほか、これらの疾病に付随する疾病その他がん原性物質若しくはがん原性因子にさらされる業務又はがん原性工程における業務に起因することが明かな疾病」に該当する。

従つて、右疾病を業務に起因することが明かな疾病と認めなかった本件処分は違法であるので、取り消されるべきである。

3  訴外山本の勤務当時の職場環境等

(一) 人造黒鉛電極製造のための原料

炭素質原料としての石油コークス、結合材としてのピツチ及びコールタール、添加剤として酸化鉄が用いられる。そのほか、後記のとおり捏合工程以降で発生する規格外品等(いわゆる還元材料―石油コークスとタール・ピツチが捏合形成されたもの及びこれを焼成または黒鉛化したもののうちの、いずれも規格外品等)も炭素質原料として用いられる。

石油コークスは、石油分溜の際副産物として得られる純粋な形態の炭素であるが、電極製造用に用いられるのはかなりの揮発分を含有しているいわゆる生石油コークスを[火反]焼してその揮発分を除いた[火反]焼石油コークスである。その形態は、入荷時においては多少の微粉を混入するが大体拳大程度の塊状のもので、ハンマークラツシャー等の粉砕機で砕いて使用される。

ピツチは、コークス炉で製造されるコールタールをさらに蒸留して得られるもので、常温では個体であるが加温すると溶融する性質を有する。入荷したピツチは、溶融して特別の用途のため用いられる場合の他はフレツトミル等の粉砕機で粉砕して粉砕ピツチとして用いられる。

コールタールは、ピツチの粘度調整に用いられる。

(二) 製造工程

本件工場における製造工程は、炭素原料(石油コークス・還元原料)及びピツチを粉砕機を用いて適当な大きさに砕き、炭素原料についてはふるい等により粒子の大きさをそろえた後、一度これを貯蔵したうえ、これを製品に合わせて配合機ないし手作業で配合する粉砕工程、右配合された炭素原料に結合材を捏合機で混合加温して練り合わせた後一定温度に冷却台で冷却したうえで成形機で柱状に成形する捏合成形工程、右成形されたものを焼成炉で焼き固めた後(焼成後に含浸装置により溶融ピツチを浸潤させ再度焼成する含浸工程を含む。)さらにこれを黒鉛化炉で黒鉛化するために焼く焼成黒鉛化工程、製品に仕上げるために旋盤等を用いて成形のための切削等をする加工工程に大別される。

(三) 粉砕(原料)工場の状況

(1) 訴外山本が入社した当時から昭和三八年ころまでの西宮工場の内の粉砕工程が行われていたところは原料工場と呼ばれていた。その当時の粉砕工程においては、エアーハンマー、ハンマークラツシヤー等の粉砕機での粉砕並びに振動ふるい等のふるい分けは密閉化が全く図られていなかつたばかりでなく、機械への原料の投入から取り出しまですべて手作業で行われていたため、右粉砕機械等からは多量のコークス・ピツチの粉塵が激しく発生飛散して室内に充満し、直接その作業に従事していた者はもちろん同工場内で作業する者もこれにさらされた。また、粉砕後の右原材料の運搬、袋詰め等の作業、野積みでの保管貯蔵等からも激しく粉塵が飛散した。そのため従業員は、昭和三五年頃訴外会社からスポンジ・ガーゼを用いた作業用マスクが支給されるまでは、布巾や手拭で口鼻を覆わざるを得ない状況であつた。また、右マスク支給後も、同マスク自体の防塵能力は極めて限定されたものであつたばかりでなく、作業自体及び作業環境等の性質上マスクをつけての作業は息苦しく、長時間のその着用は不可能であった。

(2) 右原料工場は取り壊され、昭和三九年ころからは新たに建築されたいわゆる粉砕工場が稼働をはじめた(以下改築以前の西宮工場を「旧工場」、改築後のものを「新工場」という。)。同工場では粉砕機にジョークラツシヤーが新たに導入され、粉砕機及び配合装置の一部自動化及び密閉化、振動ふるい機の密閉化、コンベアーを設置して密閉したケース内での粉砕後の原材料の輸送等の施設の新鋭化がなされた他、専用シャベルカーによるピツチ配合がなされる等従前手作業でなされていた作業もかなりの程度機械化された。また、一部の機械の側には昭和四〇年頃と同四六年頃に集塵機が設置された。

しかしながら機械等の密閉化自動化は不十分であつたばかりでなく、集塵機の集塵能力ないしその効果は極めて限定的なものであつた。即ち、エアーハンマーは従前どおり密閉されず、配合機は自動化がおわらないところがあり、密閉化された機械もその継目等の隙間からの微粉塵の漏れを防げなかった。ハンマークラツシャー等の一応密閉化された機械も原料の投入取り出し時に、また貯蔵タンクからの原料の手押車への取り出し運搬時には粉塵が発生拡散した。特に原料の配合機への投入のとき、又は手作業で特別に配合作業がなされるときは激しかつた。また、粉砕後のピツチの積み上げ時、炭素質原料の微粉末の袋詰め時にも粉塵が発生した。しかも、前記機械等の施設の改善も、製品の生産量が昭和三六年当時五九六〇屯であったのが昭和四六年には二万屯に増大したことに示されるような生産量の増加によつて、粉塵等の発生等に関する作業環境の改善を帳消しにした。

(四) 捏合・成形工場の状況

旧工場においては、捏合成形工場で十数台稼働していた捏合機が開放型であつて、原料を上部から投入するときに粉塵が舞い上がつた。そして加熱された原料からは、捏合中はもちろん冷却台上で冷却中にもピツチ、タール分等が気化したガスが発生し、ほとんどの工程を手作業で行つていた作業員を直接汚染したほかに工場内に拡散した。

新工場になつてからは、粉砕工程と捏合成形工程は粉砕工場とよばれた建屋に統合され、捏合機が自動的に捏合物が出てくるリボン型半密閉式ブレンダーに改められ、昭和四三年には冷却台が傾動式になり、同四六年には運搬の自動化が図られた他、同四八年ころには集塵機が設置される等の機械の改善新鋭化が図られた。しかしながら、捏合機の蓋が開いたときは前記ピツチ・タール分の気化したガスが溢れ出し、冷却台上で捏合物を冷却する際同ガスが発生し、作業員等を汚染することは変わりなかつた。また、捏合機に構造上残留する捏合物は人力で取り出さねばならなかつた。

そして、旧工場時代に比して前記のとおりの増産がなされたため、タール・ピツチのガスによる汚染は、右施設の改善にもかかわらず増大した。会社の支給したマスクが効果がなかったのは、前記と同様である。

(五) 粉砕工場の環境測定の結果

(1) 近畿安全衛生センターによつて、昭和四八年六月になされた西宮工場の環境測定によれば、労働省の塵肺粉塵の抑制目標である気中粉塵濃度平均測定値である一立法メートル当り五ミリグラムであるが、粉砕工場における気中粉塵濃度は、これをいずれも超えるコークス積み込み運搬作業中では一立法メートル当り三八・五七二ミリグラム(以下同じ測定単位はミリグラム数のみ示す。)、還元原料粉砕作業中では二二・〇二三ミリグラム、ピツチ配合作業中では五・二九二ミリグラムの値が測定された。また捏合成形工場におけるそれは、原料投入作業中で一九・四七五ないし二一・三〇九ミリグラムの値が測定された。そして、気中のタール濃度の平均測定値も、右両工場の各測定位置において、同省通達に係るコールタールの蒸気または粉塵の濃度の超えてはならない値である一立法メートル当り〇・二ミリグラムを上回る値を測定した。

(2) 神戸地方裁判所尼崎支部における証拠保全手続において、鑑定人大阪大学教授中南元により、昭和四九年三月一二日に行われた同環境測定によれば、粉砕工場では、前記粉塵濃度がコンベヤーに原料投入作業位置で一九ミリグラム、配合機によるホツパーへの原料投入作業位置で二・八ミリグラム、前記気中タール濃度が、前者で一・八ミリグラム、後者で〇・八三ミリグラムの各値が測定された他、気中ベンツピレン濃度も同業他社よりはるかに高いところの一立法メートル当り前者で一〇マイクロミリグラム、後者で七・五マイクロミリグラムの各値が測定された。また、捏合成形工場においては、捏合機作業位置において、気中粉塵濃度が二九ミリグラム、気中タール濃度が三・六九ミリグラム、気中ベンツピレン濃度二四マイクロミリグラムの値が測定された。

右鑑定における測定は、通常の作業状態においてなされたのではなく、訴外会社が故意に一部作業を停止し、作業現場に普段はしていない多量の散水がなされた状況下になされたもので、通常の作業環境下では、より高い値が出るべきものである。また前記近畿安全センターの測定時にも多量の散水が行われる等の通常の作業環境とは異なるものであつた。

4  訴外山本の作業の内容と粉塵等による曝露状況

(一) 具体的作業歴

(1) 訴外山本は昭和三〇年三月臨時工として西宮工場で稼働を開始したが、本工採用になつた同年七月から同年一〇月までは、前記原料工場で原料である石油コークス、還元原料、ピツチの粉砕機械を用いての粉砕、同機械への右原料の投入、搬出等の作業に従事した。

(2) 昭和三〇年一〇月から同四〇年一一月までは原料工場ないし粉砕工場の修理作業の専門修理員として、アセチレンガスによる溶接・熔断等の方法を主として用いた、チユーブミル等の粉砕機械の修理、整備、原料工場から粉砕工場への転換に伴う原料工場及び旧捏合成形工場の撤収、解体作業、粉砕工場での配合機械の整備等であつた。その他修理作業の合間には、原料の粉砕作業、粉砕後の粗原料のふるい分け、原料の微粉末のカマスないし袋詰め等の仕事にも従事した。

(3) 昭和四〇年一一月に修理作業員は機械修理部門に統括されることになつたことから、訴外山本も粉砕工場とは別棟の機械修理工場に配属になつたが、担当は粉砕工場の機械修理が専門であり、その仕事内容は従前と変化なかつた。

(4) 昭和四〇年六月から昭和四八年一一月までは再び機械修理工場から粉砕工場に配置替えとなり、前記作業のほか集塵機の補修と清掃、微粉原料の運搬装置のパツクフイルターの粉砕落し、その他の清掃作業が主たるものであつた。

(二) 粉塵等による曝露状況

訴外山本は、前記のとおり原料の粉塵が立ちこめ、タール・ピッチの蒸気ガス等によつて汚染されていた粉砕工場内で前記作業に従事したのであるが、特にエアハンマー等での粉砕作業では粉塵に激しくさらされた。またバツクフイルター及び集塵機の清掃等においても粉塵、油状粉等に曝露されざるを得なかつた。そして前記チユーブミル、捏合機等の機械修理・整備・解体等においては、狭い機械内でアセチレンガスを用いての作業を行わなければならなかったため、単に粉塵にさらされるばかりでなく熔断の際に機械に付着している原料、タール・ピツチ等が燃えて発生するガス、煙等に直接さらされた。

訴外山本の右曝露の程度が著しかったことは、同人がタール・ピッチの曝露による後記慢性的皮膚障害、呼吸器障害にかかつていたことからも明かである。

5  タール・ピツチ分を含む粉塵及びその蒸気ガスの曝露による障害

(一) タール・ピツチの曝露による障害は、皮膚の暴露においては、光過敏性皮膚炎、黒皮症などの皮膚色素異常、皮膚の角化、斑状毛細血管拡張、限局性毛細血管拡張症(ガス斑)等の皮膚障害にかかる。またタール・ピツチの後記のとおりの発癌性からその曝露から皮膚癌にかかる可能性が極めて高くなることは著名な事実である。右ガス斑はタール曝露を裏付ける指標とされている。

呼吸器官の曝露においては、下気道の末梢ほど吸入されたタール・ピツチの喀出が容易でなく滞留時間が長くなるため、タールの粒子状物質、蒸気、ガスの作用が強くなり、気管支炎、肺胞炎等が起こりやすくなる。その刺激の継続と慢性炎症の結果として気管支拡張や気腫性病変が発生する可能性が高くなる。その場合には、さらに粉塵、蒸気等の作用及び粉塵の肺内沈着が助長されることとなり、そこに発癌性物質が存在するときには増殖性病変が生じる可能性が極めて高くなるとされている。

また、右タール分等の継続的刺激によつて気管支の炎症が発生しそれが継続して慢性炎症になるときには、その炎症自体の結果から気管支の上皮細胞に異常増殖、化生が生じて発癌しやすい組織素因が生じるとの見解も存する。

黒鉛、コークスの粉塵のみの曝露によつても、これを吸入するときには肺に粉塵が沈着し、これが高度になるときには肺に繊維増殖性変化等が生じて塵肺にり患することは、著名な事実である。

(二) タール・ピツチ分を多量に含む粉塵ないしその高度な蒸気ガスに長期間曝露されたときには、その障害はその直接的な曝露を受ける上記の皮膚、呼吸器の一般的障害及びその各器官部位の癌に限られず、食道及び胃等の、消化器官等の癌の発生を有意義に高めることが疫学上の見地においても広く認められている。

なお、食道等の消化器官がタール・ピツチに曝露される経路としては、タール・ピツチを含む粉塵を吸入した場合には、鼻や喉に付着したものはその後に口の中に流れてくるため、それは唾液とともに常時飲み込まれる。また、肺、気管支等の粘膜に付着したものは、そこで分泌される粘液にくるまれ繊毛細胞の働きにより「たん」として大部分が排出されることになるが、これが飲み込まれることがある。特に就寝中にはこれが認められる。従つて、食道等の消化器官もタール・ピツチに曝露されることとなるのである。また、皮膚から若干吸収される他、気道からも直接吸収されて全身に循環する。

6  労基法、労災保険法上の業務上の疾病の解釈について

労基法、労災保険法上の業務上疾病の法解釈としては、業務と疾病との間に労働省が要求している、相当因果関係の概念及びその認定のための業務遂行性、業務起因性の二要件主義には合理的理由はない。従つて、これに代えてより広い概念である合理的関連性をもつて捉えるべきである。右両法が定める法定補償制度は、労働者の損害の填補それ自体を目的とするもの(損害填補)ではなく、労働者の生活保障を目的とする制度(生活保障)であると解さなければならない。そこでその制度的目的にそつて業務上の疾病とは業務と合理的関連性のある疾病と解されるべきであり、関連性の有無は、労働者保護の見地から労災補償の法的救済を与えることが合理的か否かの実質判断から合目的に総合判断されるべきである。その判定は、通常人が疑いをさしはさまない程度に真実性の確信を持ちうるものであることが必要であるがそれで足りるのであつて、病理学的因果関係の存在や厳密な意味における疫学的因果関係の存在が証明される必要はない。

従つて、訴外山本は、発癌物質であるタール・ピツチに激しく業務に関連して長期間継続的に曝露を受けたのであるから、同人に発症した癌は法的に保護を受けるべき業務上の疾病に該当することは明かである。

また、かりに、疾病と業務との間に相当因果関係の存在を必要とするにしても、本件においては、以下の疫学的調査等からその因果関係の存在は明かである。

7  タール・ピツチに曝露される作業従事者に消化器官の癌の有意的多発性を示した疫学的文献・論文・報告等

(一) IARCモノグラフ

ある物質の発癌性に関する研究論文の評価については、世界保健機構(WHO)の設立した国際癌研究機関(IARC)では、物質の発癌性についての研究論文を集め、専門家による集団的検討を経てその研究の評価をしたものを逐次出版している。これはIARCモノグラフと呼ばれており、いままでに四〇巻ほどが出されている。その内タール様物質の発癌性に関しては、次のものがある。

(1) 一九七九年版

IARCモノグラフの一巻から二〇巻までを網羅してその発癌性についての評価を要約したものである。そこでは「石炭媒、コールタール、ピツチ、コールタールピツチ、ある種の不純な鉱物油に職業的に曝露されることは、皮膚、肺、膀胱、胃腸管を含むいくつかの部位に癌を起こす。最近のデータはこれらの結論を支持する。この効果(発癌)はおそらく、これらの物質に含まれる多環芳香族炭化水素によるものであろう。」とされている。

(2) 一九八二年版

煤、タール、及び石油とベンゾ{a}ピレンについて、「煤、タール、及び石油には、人に対する発癌性の十分な証拠がある。ベンゾ{a}ピレンについては、証拠が不適切である。ただし動物に対しては十分な証拠がある。」とされている。

(3) 第三四巻多核芳香族化合物第三部

アルミニウム生産、石炭ガス化、コークス製造、鉄鋼鋳造における曝露に関する人間のデータとして、「二つの研究で製鉄労働者や鋼鋳造労働者の部位別死亡は、一般人口の対応する率と比較され、消化器系の癌で危険が有意に増大していたことが認められた。即ち、その一つの研究では消化器系に、他のものには胃癌に危険の増大がみられた。」とされている。

(4) 第三五巻多核芳香族化合物第四部

れき青、コールタール及びその誘導産物、頁岩油、煤の人間における発癌性に関する症例報告と疫学的研究として、後記ハモンドらの研究を紹介している。

(5) 一九八七年IARCモノグラフ補遺七

「コールタールピツチの人に対する発癌性の証拠(十分)」とし、前回の評価以後に発表された、キユースらの報告及び後記シルバーステインらの報告により、より確実性が増した事実として、「米国の屋根葺職人についてのコーホート研究は肺癌の危険の増大と口腔、咽頭、食道、胃、皮膚及び膀胱の癌、白血病の危険の暗示的増大を指摘した。肺、咽頭及び膀胱の癌の過剰危険についていくつかの支持が屋根葺職人に関する他の研究から出されている。」「金属型打ち工場でコールタールピツチに曝露された機械据え付け工と溶接工についての一つの研究では、白血病と肺癌と消化器官癌の有意な過剰が示された。」等とされている。

(6) 一九八五年第三八巻

人に対する化学物質の発癌性の評価の内煙草と喫煙については、「唇、口腔、咽頭及び食道の癌は、共通の特徴を共有している。」「多くのコーホート研究は、喫煙者で唇、口腔、喉頭及び食道の癌のリスクが増大することを示した。」としている。

(二) 文献関係

(1) ラドフオードの報告

鉄鋼産業の労働者につきなされた疫学調査の結果、肺、口、鼻、喉の癌が多いばかりでなく、消化器系の食道癌、さらには血液癌である白血病、さらには前立腺の癌が多いとされている。即ち、肺癌が多いあるいは上気道の癌が多いということと関連して、消化器癌が多いということが、タール以外の発癌物質の曝露の場合にもいわれている、としている。

(2) ロイド(Lloyd)らの報告

ペンシルバニア州の七つの製鉄所で働いていた五万八八二六人の労働者を六年間にわたつて追跡調査し、その内コークス工場では二五四三人を六年間追跡調査した結果は、消化器系の口腔及び咽頭性の癌についても五パーセントの危険率で有意差があることが判明したとされている。

消化器系の癌は、コークス工場で五年以上コークス炉外で働いた労働者群に五パーセントの危険率で有意差があること、及びコークス炉で働いた労働者には有意差がないことが報告されているが、コークス炉以外のコークス工場で働いた労働者に付いて、消化器系の癌の発生率が有意に高いとされている。

(3) ハモンド(Hamond)らの報告「ベンツピレン吸入と人間の癌」・ニユーヨークアカデミー年報二七一号

屋根その他の防水処理に、高熱のピツチやアスフアルトを塗装する仕事に従事するため、多量のコールタール・ピツチの蒸気に曝露される屋根葺職人の組合のメンバー約六〇〇人の追跡調査によれば、身体の全ての部位で癌による死亡率が高いこと、二〇年以上の在職者では肺癌の発生率が一・六倍、口腔、咽頭、食道など、呼吸した空気が入つていく途中に近いところ、あるいは空気中の汚染物質が付着したりして作用しやすい部分では、一・九五倍の発癌危険率の高まりが観察される、とされている。

(4) シルバーステイン(Silverstein)らの報告「コールタール・ピツチの揮発物と溶接発散物に曝露された労働者の死亡率」・米国公衆衛生雑誌七五巻一一号

合衆国自動車労働者国際労働組合の組合員群の死亡の疫学調査によれば、消化器系の癌、肺癌、白血病による死亡の割合が二ないし五倍も多い。肺癌及び消化器系癌と、当該工場で保守管理溶接工及び機械据え付け工としての雇用の間には、強い関連(オツズ比一〇以上)が認められた。変異原生と発癌性を持つ高いレベルの六種類の多環芳香族炭化水素が木のブロツクの床に温かいコールタールの施用中に認められ、労働は高い危険レベルで行われたものである、とされている。

(5) ベツキア(Vecchia)らの報告「紙券煙草のタール産出物と食道癌の危険」・国際癌学会雑誌三八巻一九八六年

喫煙者についてタール含有物の高い煙草を吸うものは、食道癌増大の相対的危険率が非喫煙者の八・九倍にのぼり、煙草のタールから出てくるものと危険との関係が、肺癌より食道癌でより顕著であることを示した、としている。

(6) グスタフソン(Gustavsson)らの報告「スウエーデンの煙突掃除夫のコーホートにおける癌発生」・イギリス労働医学雑誌四四巻一九八七年

右調査は、スウエーデンの煙突掃除夫五四六四人について、一九五一年から一九八二年までの三二年間の死亡状況の追跡調査である。その調査集団では、一般人口と比較して、食道癌で四・九四倍、肺癌で二・五三倍、肝臓癌で四・五八倍の危険率の高まりが見られた。そのほか環状動脈性心疾患、呼吸器系疾患による死亡の増大が見られたが、これら各部位の癌等の疾患による一二九例の過剰死亡例は、喫煙の習慣によるものでなく、煙突掃除の労働環境中の化学的有害物質に帰せられるであろうとの結論が明確にのべられている。

(7) 松島泰次郎 「職業癌の原因物質」・安全工学講座6

煤、タール、鉱物油が人に対する発癌物質として十分な証拠のあるものとして挙げられ、発癌部位には皮膚、肺、膀胱と並んで消化管と記載されている。

(8) ハンセン(Hansen)の報告 「れき青フユームに曝露された職業コーホートにおける癌発生」・スカンジナビア作業・環境・健康雑誌一五巻一九八九年

タール、コールタールピツチ、アスフアルトと同種の物質であるれき青の発癌性について、一九五九年から一九八四年までの間六七九人のデンマーク人男性からなるコーホートでの調査である。マスチツクアスフアルトの大量曝露を受けた労働者には口腔癌(一一・一一倍)、食道癌(六・九八倍)、肺癌(三・四四倍)の癌発生率の高まりが見られた、としている。

なお、右調査におけるアスフアルトミツクスの取扱温度と電極製造の捏合工程におけるコールタールピツチの加熱温度は酷似していることに注目されるべきである。

(9) ピツツパーグ大学の調査結果

コークス工場従業員三五三〇名、一般労働者五八八二名の追跡調査によれば、コークス炉上作業に五年以上従事すると一〇倍の肺癌が発生する。炉辺作業のコークス労働者に消化器系癌が多発する。特に五年以上の従業者には三倍発生する。コールタール産業に従事するすべての職種で一ないし二以上の各種癌が発生するとされている。

8  アスベスト等の粉塵の吸入と消化器系癌の発生

セリコフ(Selikoff)、エンターライン(Enterline)等の疫学調査によれば、アスベスト(石綿)を取り扱う労働者の肺癌死亡率が極めて高いことを示すと共に、消化管(胃、大腸、直腸、食道)の癌による死亡についても、比較対象群に対して高い危険度(セリコフの調査では三・一倍の比較危険度)を持つことが示されている。

これは空気中に浮遊しているアスベストを経気道的に吸入することによつて、肺の他咽頭や食道、胃等にも癌を発生させることを表している、としている。

このことは、クロム酸塩の粉塵等についても同様のことを示している。

9  千葉大学海老原助教授による訴外会社の粉塵作業労働者についての癌による死亡調査について

同調査は、訴外会社の粉塵作業に従事していた労働者で、一九五八年から一九八一年までの期間、作業年数五年以上の男性のうちから一九五七年以前の退職者を除いた者三五七名を対象として、悪性新生物によつて死亡した者一四名について疫学調査をしたものである。

右対象者数における日本人一般の死亡者の場合に期待される数である期待数は、九・〇五であるので、右死亡者数一四の比較危険率は一・五五と高率である。特に肺等の呼吸気管系の癌は五例で期待数一・一四で比較危険率は四・三九であり、リンパ造血組織の癌は、三例で期待数〇・五三から同危険率五・六六と有意差が認められた。その他の癌については有意差はでなかつたが、胃癌を除く比較危険率がすべて二以上である。

二  被告の請求原因に対する認否並びに主張

1  原告の主張1ないし6に記載の労災事故の発生、本件処分等の経緯、訴外山本の勤務当時の職場環境等その他の事実ないし主張は、以下を除いて認める。

同1の(三)記載の訴外山本の食道癌の発病と死亡に業務起因性があるとの主張は争う。同2の(四)の右食道癌が労規則別表第一の二第7号18の業務に起因することが明かな疾病に該当するとの主張は争う。同5の(二)記載のタール・ピツチ分を含む粉塵ないしその蒸気ガスの曝露によつて、食道等の消化器官の癌の発生を有意義に高めることが疫学上の見地から広く認められているとのことは否認する。

2  原告の主張6の労基法、労災保険法の解釈は争う。同主張7ないし9のタール・ピツチの曝露と食道等の消化器官の癌の関係に関する疫学的文献、論文、報告、アスベスト等の粉塵の吸入と消化器系癌の発生、訴外会社の粉塵作業労働者についての癌による死亡調査等に各記載の文献、調査が存することは認めるが、その調査等の解釈、信頼性等については争う。特に論文中に消化器官とあるのを、食道部分と理解することは争う。胃等の汚染物が滞留する可能性のある器官と、食道等の通過器官を同一には論じられないからである。

3  タール・ピツチの皮膚障害の業務起因性の認定

本件処分に先立ち、訴外山本から昭和四八年一一月九日、傷病名をタール・ピツチによる皮膚障害、慢性気管支炎、食道腫脹とする休業補償給付請求がなされたので、調査の結果タール・ピツチによる皮膚障害については業務に起因する疾病であると認め、昭和四九年五月二三日、右休業補償給付につき支給決定をし、その補償をなしている。

4  労基法上の業務上疾病の範囲

労災保険法二条の二は、業務上の事由による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に関して保険給付を行う旨定めているが、労基法七五条二項は、業務上の疾病の範囲を命令で定めることとしたので、これを受けて労働基準法施行規則(以下「労規則」という。)は、疾病を具体的に列挙するとともに、これに網羅しきれない疾病についても「業務に起因することの明かな疾病」は業務上の疾病とする旨定めて(労規則三五条、別表第一の二)その範囲を明かにしている。そして、右に具体的に列挙された疾病については、一定の要件を具備してさえいれば、特段の事情のない限りその疾病は業務と後記の相当因果関係が存することが推定されるものとして使用者に災害補償義務が課されるのに対し、前記網羅しきれない疾病については、個々の事案ごとに業務上の事由により生じたものであることの証明ができたものについてのみ、使用者に補償義務が課されるのが原則である。

5  職業性疾病の認定の基本的考え方

労働者に生じる疾病については、一般に多数の原因又は条件が競合しており、その条件の一つとして労働者の業務が介在することを完全に否定しうるものは極めてまれである。しかしながら、単にこのような条件的ないし事実的因果関係があることをもつて、直に業務と疾病との間に因果関係が認められるものではなく、業務と疾病との間にいわゆる相当因果関係がある場合に初めて業務上の疾病として取り扱われるべきものである。従つて、業務が当該疾病の発症に対して相対的に有力な原因であると認められるときに相当因果関係があり、当該疾病に業務起因性があるものと解すべきである。さらに分説すれば、業務が発症原因の形成に、またその発症原因が疾病形成にそれぞれ相対的に有力な役割を果たしたと、医学的に認められる必要があるものというべきである。もちろん、業務上の疾病であるか否かの判定は、厳密な医学的究明までは必要としないが、医学的知見に照らして業務と疾病との間の因果関係が高度の蓋然性をもつて存在するものと認められるか否かをもつて判断すべきであつて、単なる可能性があるか否かによつて判断すべきものではない。

6  職業癌については、労規則別表一の二(昭和五三年改正のもの)はその七号に定められているが、そこでいわれている癌原性物質とは、特定の化学物質であつて癌の原因となることが解明されているものをいい同号1から9に掲げられている物質がこれに当たる。癌原性因子とは、同号10の電離放射線であり、癌原性工程とは、特定の作業工程に従事する労働者に特定の部位の癌の発生の超過危険が存在することが見いだされている作業工程で、そこでは多種類の化学物質に曝露されるため、癌原性物質が特定し得ないものである。それは同号の11から17までに列差されているが、特にタール・ピツチの曝露に関係する作業工程としては、その13に「コークス又は発生炉ガスを製造する工程における業務」が、その17には「すす、鉱物油、タール、ピツチ、アスフアルト又はパラフインにさらされる業務」が各挙げられているが、その場合の特定部位の癌としては13では肺癌が、17では皮膚癌が掲げられているのみであるばかりでなく、食道癌は七号の1ないし17のいずれにも掲げられていない。したがつて、特定部位の癌としての食道癌については、7号の18所定の「1から17までに掲げるもののほか、これらの疾病に付随する疾病その他がん原性物質若しくはがん原性因子にさらされる業務又はがん原性工程における業務に起因することが明らかな疾病」に該当するか否かによつて労災補償の対象となる業務上の疾病か否かの有無が定まる。そのため、それぞれの事案ごとに有害因子への曝露状況、当該疾病に関する医学上の資料等を可能な範囲で把握した上で検討されるべきである。そのうち認定が困難で慎重な検討を要するものについては、労働行政実務上では労働省労働基準局長が私的諮問機関として設置する専門会議において検討がなされている。本件についても同機関においてその検討がなされ、その結果が参考にされているものである。

なお、癌の原因や発症メカニズムについては十分に明らかにされていないが、発癌物質に対する反応は各組織、特に臓器毎に異なり、特定の発癌物質によりすべての、あるいは多数の臓器に一様に癌発生の危険を示すものではないと解される。一般に特定の起因物質に関連して発生した癌といえども、その発生機序については、内因・外因の多様な因子が複合関与し、その発生経緯、部位、組織型等の臨床、病理像は他の原因で起こつた癌と差異がないため、疫学的研究が職業癌等の因子を確認するために最も重要かつ適切である。

7  タール様物質の曝露する作業に従事した労働者に発生する癌以外の疾病

労規則別表一の二において右の疾病については、主としてその障害として著名な皮膚障害と、呼吸器障害が挙げられているが、食道の障害は挙げられていない。

その内の職業曝露の直接経路である呼吸器の障害については、鼻腔、咽頭、喉頭、気管等の上気道では、タール様物質に由来する粒子状物質、ガス及び蒸気の刺激による炎症が考えられるが、右部位には潰瘍、穿孔等の病変や潰瘍性病変については現時点では、その報告は見られない。気管支、肺等の下気道については、前記粒子状物質、ガス等の作用は、気道末梢になるほどこれらの物質の喀出が容易でなくその滞留時間が長くなるため上気道に比して増強される。そのため、気管支炎、肺胞炎等が起きるし、その刺激の継続と慢性炎症の結果として気管支拡張や気腫性病変が随伴する可能性があり、さらには、発癌物質の影響によつては増殖性病変が起こりうるとされている。

8  タール・ピツチの発癌性について

(一) タール蒸留、練炭製造、コークスガス製造、ピツチ積作業等を行うタール・ピツチ曝露作業従事者に皮膚癌の発生が顕著であることは、一七七五年にイギリスのポツト(Pott)が煙突掃除夫の陰嚢癌に関する報告を初めとして多数の報告がある。

ウオイクマン(Woikman)・一八七五年・ドイツ エツクアルト(Eckardt)・一九五九年 ヘンリー(Henry)・一九四七年・イギリス ヴオゴプスキイ(Bogovsky)・一九六〇年他

また山極と市川・一九一六年・日本等の動物実験の結果から、皮膚に対するコールタール、ピツチ、煤、鉱物油等の癌原性は比較的早期に確立されている。

タールの癌原性にかんしては、タールの量的構成比から考えて、多環式炭化水素類が中心であることは、実験報告により結論づけられる。

(二) 特にタール中に含まれている三・四ペンゾピレンの癌原性については、その投与方法、被実験動物、被験臓器組織について極めて広範な実験成績がみられ、しかも気管支注入法、皮膚塗布実験、皮膚投与実験については、その量・反応関係も認められている。

9  タール・ピツチによる職業癌の発生部位について

タール・ピツチについては、一定の曝露条件の下において、肺癌、皮膚癌の発生することが知られているが、その他の臓器、器官特に消化器官における癌発生に関しては触れている疫学的研究報告及び症例報告としては、アメリカのロイド・レドモンド(Redmond)らの報告(一九六九年・一九七〇年・一九七二年)イギリスのドールの報告(一九六二年) イギリスの職業別死亡統計表等がある。

しかしながら、〈1〉ロイドの報告では、口腔、及び咽頭部の癌はコークス工場でコークス炉外で働く者の中に五例が見いだされ比較危険度は五パーセントの危険率で有意性があつたともみれるが、例数も少なく、更に他の製鉄所での調査結果が出ない限り有意性を一般的に論じることはできないというべきである。また同報告では、消化器系の癌はコークス工場五年以上コークス炉外で働いた労働者群に五パーセントの危険率で有意差があるとされたが、同時にコークス炉で働いた労働者については有意性はないことが示されているのであるから、右コークス炉外労働者の有意性は他の調査結果が出ない限り、その解釈は困難である。

〈2〉ドール(Doll)らの調査では、胃、十二指腸癌については有意性は認められていない。

〈3〉イギリスの職業別死亡統計表によれば、石炭ガス及びコークス製造従業者に有意に高いすい臓癌の発生が示されているとの調査があるが、この統計だけコークス工場にすい臓癌の発生が高いと断定するには困難である。

〈4〉大久保・土屋の「産業人口の癌死亡に関する疫学的研究」(昭和四九年)における調査回答を事務部門と生産部門に分けて癌の部位別に検討した結果においては、食道癌の死亡は事務部門にやや多く(期待値九・四に対して一一)、生産部門に少なかつた(期待値二三に対して一〇)とされ、また、産業群、取扱物質に関して検討しても、特定の因子との関係は見つからなかつたとしている。むしろ、鉄鋼業の産業群の生産部門従業員では食道癌の死亡は期待値を下回ったとの報告がなされている。

〈5〉食道癌については、平山らの一九五八年の癌実体調査における販売業に多いとの報告、一九五〇年から一九五一年の東京都死亡票の分析からは、管理的職業に多いとの報告がある。その他食道癌に関しては、低社会経済層である未熟練労働者(Buell・一九四九年から一九五一年)に多いとされたが、これに加えて専門技術的職業で占める最上級階層にも多く、その階層分布についてはU字型になる(ローガン・一九四九年 クレメツセン・一九四三年から一九四七年)。

10  訴外山本の食道癌について

(一) 癌の原発部位について

訴外山本の食道癌の原発部位は、そのレントゲン所見、病理解剖における顕微鏡所見等によれば、食道第二生理狭窄部であることは明らかである。

タール・ピッチ、粉塵等の作用による癌発生の可能性を考えた場合、人体の構造上、咽頭、喉頭及びこれに近接する食道の部位は異物による刺激を受け易いのに対し、飲み込まれた異物は食道の第二生理狭窄部付近を速やかに通過することから、右狭窄部はその上部に比して異物の刺激等が原因となる癌の発生する可能性は格段に低いものというべきである。

また、空気中のタール・ピツチ、粉塵、蒸気、ガス等に曝露された場合においても、それが消化管、特に食道に作用する量ないし程度は、皮膚や肺に比して相当に低いものと解される。従つて、肺、皮膚等の結果から直に即断することは相当でなく、個々の起因物質、個々の発生部位毎に疫学的な裏づけが必要である。すなわち、食道には肺や気道のように吸入した外来性物質がある期間その部位に滞留したり、緩慢な排出の過程でその物質の作用が食道粘膜に持続的に働くといつた機能構造が備わつておらず、通常嚥下物の食道通過は速やかに行われるものである。もつとも特殊個人的に通過を妨げるような食道の特殊形態が癌発生以前に存在していた場合には、そのリスクは高くなるものと想像されるが、訴外山本の既往歴、剖検記録によれば、同人にそのような特殊事情は伺えない。

(二) 喫煙及び飲酒と食道癌の関係について

一般的にいえば、食道癌の真の原因は不明であると言わざるを得ないが、食道粘膜上皮に対する物理的、化学的又は機械的刺激が外因となるものと考えられている。その観点から重要視されるのが、常習的飲酒と常習的過熱飲料摂取である。喫煙については、常習的飲酒を伴つた場合に初めて食道癌の発生率に比例することが示されている。すなわち、非飲酒者を一とした場合に毎日飲酒量の年齢標準化死亡率は一・八二であり、これに毎日二〇本以上の喫煙が合わさるときにはその死亡比は二・四七に高まるという結果がしめされている。

ところで訴外山本においては、一日に紙巻煙草二〇本程度の喫煙と、毎日日本酒一ないし二合の飲酒の習慣が存したものであるから、右食道癌の成因に関する知見から判断すると、右習慣において食道癌発生のリスクが高まつていたものである。

第三証拠等 <略>

理由

一  事実経過等

1  原告の主張1の(一)、(二)の労災事故の発生の事実及び、同2の(一)ないし(三)の本件処分等の経緯、並びに同1の(三)記載事実のうち訴外山本の死亡原因が原発性の食道癌であつたことは当事者間に争いがない。

また、原告の主張3の訴外山本の勤務当時の職場環境等については、その(一)ないし(五)に記載の人造黒鉛電極製造のための原料、製造工程、工場の状況及び環境測定の結果についても当事者間に争いがない。

ただし、<証拠略>によれば、訴外会社は、タール・ピッチによる障害が多発していることの一対策として、昭和四六年六月ころからタールの添加を一部の製品関係を除いて廃止し、昭和四七年九月に特定化学物質等障害予防規則所定の物質にタールが指定されたことから、同四八年五月ころにはタールの使用をすべて廃止したことが認められる。

2  原告の主張4の訴外山本の作業の内容と粉塵等による曝露状況については、その(一)の具体的作業歴、(二)の粉塵等による曝露状況についても争いがないが、さらに<証拠略>によれば、訴外山本が訴外会社に就職するまでの経歴としては、昭和一四年八月から昭和二二年二月までの間は兵役に服し、その後は出身地において農業に従事していたが、昭和二四年二月から昭和二七年二月までは日立造船桜島銅工場において、また昭和二七年五月から翌二八年七月まで神崎製紙の下請けの中嶋工業でいずれも配管工として働き、次いで昭和二九年八月まで昭和自動車春日工場で板金工をしていたもので、訴外会社への勤務以前においてはタール・ピッチ等の発癌物質に特に曝露する作業に従事したことはないものと認められる。

また、<証拠略>によれば、訴外山本は西宮工場に正常な状態で勤務していたこと、同人が具体的に労働に従事した時間は、記録がないのでその詳細は不明であるが、同工場の就労時間は八時から一六時と定められていて実働七時間であったこと、時間外労働は通常月四〇時間程度であつたことが推定されるところである。

3  原告の主張5のタール・ピッチ分を含む粉塵その他その蒸気ガスの曝露による障害については、同(一)に記載のとおり、その曝露状態が甚だしいときには、皮膚に関しては光過敏性皮膚炎等の障害及び皮膚癌の発症が、呼吸器系に関しては気管支炎、肺胞炎等の障害及び肺癌の発症が職業疾患として認められること、並びに黒鉛・コークスの粉塵のみの曝露の影響によっても職業病としての塵肺にり患する虞が高いことは顕著な事実であることは、当事者間に争いがない。

これは、<証拠略>によれば、タール・ピッチは、芳香族多環炭化水素類を多種多量に含有しており、一括してタール様物質と総称しうるものであるところ、タール様物質を取り扱う職場における作業者の身体への進入経路として最も顕著なのは、同物質との直接的接触がなされる皮膚の他は、気道であると考えられ、この進入経路に関与するタールは蒸気ガスの他空気中に飛散した粒子状のタール、あるいは浮遊粉塵に付着したものであると解されている。

なお、<証拠略>によれば、製鋼用ガス発生炉、ガス製造、コークス製造、アスファルト塗布等のタール蒸気ガスを吸入する作業に従事する労働者に職業性の肺癌の危険性が高いことを示す、黒田・川畑の報告一九三六年、ケナアウエイ(Kennaway)の一九三六年の報告、ドール(Doll)・一九五二年・一九六五年・一九七二年の報告、ロイド(Lloyd)ら一九六六年・一九七〇年・一九七一年の報告、レドモンド(Redmond)一九七二年の報告ハモンド(Hamond)の報告、タールと職業癌の因果関係の解明する専門委員会検討結果中間報告・昭和四九年労働省コークス炉作業者疫学調査結果、大久保・土屋の昭和四九年の報告等の疫学的研究・調査等が存することが認められる。その研究結果は、被告においても認めるところであり、また、<証拠略>によれば、本件西宮工場での作業に従事してタール等を含む粉塵の曝露を受けた訴外徳丸がり患した肺癌については、右疫学上の知見に基づき被告において業務起因性を認定していることが認められる。

また、同5(二)に記載の事実のうち、食道等の消化器官がタール・ピッチに曝露される経路としては、タール・ピッチを含む粉塵を吸入した場合には、鼻や喉に付着したものはその後に口の中に流れてくるため、それは唾液とともに常時飲み込まれること、肺、気管支等の粘膜に付着したものは、そこで分泌される粘液にくるまれ繊毛細胞の働きにより「たん」として大部分が排出されることになるが、これが飲み込まれることがあること、特に右のように飲み込まれるのは就寝中に多いこと等のことから、食道等の消化器官もタール・ピッチに曝露されることがあること、また、タール様物質は皮膚から若干吸収される他気道からも直接吸収されて全身に循環することもあることは、被告において争わないところである。

4  <証拠略>によれば、本件工場の電極製造作業に従事する従業員には、従前からタール・ピッチによる皮膚障害を訴える者が多数存在したが、昭和四八年四月頃に労働組合が行った自主検診では、受診した右従事者七〇名全員が皮膚障害にかかつていたこと、また、塵肺症と診断された者も昭和三七年頃には数名、昭和四一年当時は一二名、その後の塵肺健康診断でも、昭和四五年、四六年、四八年には各一〇名前後の者が塵肺と診断されていることが認められる。

また<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

訴外山本においては、昭和四〇年以前から顔面の痛みを訴えていたばかりでなく、顔等の露出部の皮膚が赤黒くなる等の症状を呈していたが、昭和四八年四月頃行われた検診によつてタール・ピッチによる皮膚障害である日光過敏症、粉瘤腫等にかかつていたことが診断され、その皮膚にはタール・ピッチの障害を受けた皮膚に特有な色素沈着、ガス斑が見られたほか、呼吸器系の内科的症状も見られる状態であつた。そして同年夏ころからは咳嗽が激しくなり、嚥下障害の自覚が見られるようになつたので、大阪大学医学部付属病院で診察を受けたところ、タール・ピッチにより皮膚障害(前記皮膚症状のほか、頸胸部両側上肢に色素沈着、黒色面疱がみられた。)、慢性気管支炎と診断された。

さらにその後、部位として鎖骨下方食道第二生理狭窄部付近の胸部食道癌が発見されたので、同年一一月に食道癌の摘出、胃瘻、頚瘻造設の手術をうけ一時は経過良好であつたが、その後再発し、昭和四九年八月一四日、左無気肺、悪液質、肺性心の状態となり、食道癌により死亡した。

そして、訴外山本の病理解剖の結果として、同人の食道癌は偏平上皮癌で前記姑息的手術後一年の状態であつて、腫瘍塊は食道の第一生理狭窄部から第三生理狭窄部までを占有し、壊死傾向がみられるほか、転移は右鎖骨下、右肺門、傍気管及び膵体部リンパ節、左肺上葉に腫瘍細胞の誤嚥がみられ、残存食道については、上部では著変なく下部で軽度の食道炎が見られる状態であつた。また、そのほか気管部には慢性気管支炎及び気管支肺炎があり、両肺部には高度な炭粉塵の沈着がみられ、肺の繊維増殖性変化は見いだされなかつたが、その症状から既に塵肺(黒鉛肺)にり患していたとみることを妨げない状態であつた。

以上のことが認められる。

5  右判示の西宮工場の職場環境、訴外山本の従事していた職務及び同人の病歴、解剖所見等によれば、訴外山本は、タール・ピッチ分を含む粉塵及びタール分の蒸気ガスに長期間(通算約一八年間)継続的にかなりひどい曝露を受けていたことが明らかである。

しかしながら、業務上の疾病については、労基法(七五条二項)の委任をうけて労規則(三五条)がその別表第一の二において、医学上の知識によりその因果関係が明らかなことから業務上の疾病として定型化ないし一般化できるものを列挙し、定型化になじまないものについては「その他業務に起因することの明かな疾病」としてその範囲を定めている。そのうち職業癌に関しては同表7号に表示されているが、特定部位としての食道癌については具体的には掲げられていないので、訴外山本の本件食道癌が同7号18所定の「癌原性物質等にさらされる業務に起因することが明らかな疾病」に該当することが医学上の知見等の観点から認められるものと判断しうるか否かによつて、労災補償の対象となるか否かが決まるものである。

従つて、前記訴外山本のタール・ピッチ等の曝露と、同人の発症した食道癌との間に医学上等の因果関係が存するか否かがさらに検討されねばならない。

二  労基法上の業務上の疾病の解釈について

原告はその主張6において、労基法、労災保険法上の業務上の疾病を定めるについての解釈としては、業務と疾病との間に相当因果関係を要求してそれが認められるときにのみ業務起因性が存するとすることは合理的理由はないので、その間に右相当因果関係より広い概念である合理的関連性の存在をもつて律すべきであり、右合理的関連性の有無は労働者保護の見地から、労災補償の救済を与えることが合理的か否か合目的に判断されなければならないところ、訴外山本は業務に関連して発癌物質たるタール・ピッチ蒸気ガス又はその粉塵の曝露を受けていたところ食道癌を発症して死亡したのであるから、同人の死亡は右保護に値する業務上の死亡である、と主張している。

1  しかしながら、労働基準法・労働者災害補償保険法は、使用者は労働者の業務上の負傷、疾病、障害又は死亡について補償ないし保険給付をなす旨定めるところ、労働者が業務上死亡した場合とは、「労働者が業務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と業務との間には相当因果関係のあることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となつて死亡事故が発生したものでなければならない。」と解するのが相当である(最判昭五一年一一月一二日民集一一巻一一九号一八九頁参照)。

すなわち疾病につき業務起因性があるというためには、一般に疾病等が業務を原因として生じたものであつて、しかも業務との間に経験則上ないしは社会通念上予想される相当因果関係が存することをいい、この相当因果関係の有無を判断するには疾病等の発生の原因をなしたすべての事情、特に非災害的疾病である職業性疾病にあつては作業の内容、性質、作業環境、従事期間、発症の経緯、同種の業務に就いている労働者における類似症状の発症の有無等の諸般の事情を総合勘案して決すべきこととなる。また、相当因果関係が要求されるといつても、当該業務が当該疾病の最有力原因であることまでは必要でなく、諸々の原因のうちで相対的に有力なものであれば足りると解するのが一般である。

なお、その相当因果関係をその立証程度の方面からいうときには、一点の疑義も許されない自然科学的立証ではなく、経験則に照らして事実と結果との間に高度の蓋然性があることが証明されればたり、その判定は通常人が疑いを差し挾まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものと解られている。

2  一方、<証拠略>によれば、一般に発癌物質に対する人体の反応は、組織、臓器毎に異なるとされている。特定の発癌物質により複数の臓器・部位につき癌の多発が見られるとする報告が、煙草、クロム化合物、アスベスト等につきみられるが、通例は、ある発癌物質と発癌部位との間に特異選択的な関係があるとされており、最近では特定臓器(標的臓器)に加えていくつかの臓器についての癌発生がいわれ、調査検討されているものの、すべての、あるいは多数の臓器・部位につき一様に癌発生の危険を示すという報告、文献は見られず、タール・ピッチについてもこれは同様であることが認められる。

しかも<証拠略>によれば、発癌の機序については未解明の部分が多く、発癌には内因、外因の多様な因子が複合関与していると考えられることに加え、特定の起因物質に関連して発生した癌であつても、その経過、部位、組織型等の臨床、病理像は他の原因で起こつた癌との差異は見られないので、完成した癌につきその臨床、病理解剖所見から原因を決定することは不可能であり、このことは、タール・ピッチに関連した癌についても同様である。また、動物実験の成果は、直には人間に対しては適用できないことは医学上の知識としてよく知られた事実であることが認められるところである。

従って、特定物質の人間への発癌性の有無、発癌部位等を判断するには、疫学的調査研究が欠かせず、その調査研究結果が職業癌等の因子を確認するための最も重要かつ適切な根拠であると解される。

三  タール様物質ないしそれを含む粉塵の曝露と、食道癌等の消化器性癌に関する疫学的研究

1  原告の主張7に記載のタール・ピッチに曝露される作業従事者に消化器系の癌の有意的多発性を示した疫学的文献・論文・報告自体の存在に関しては、被告は争わないところであるが、被告においては、その文献等の解釈ないし信頼性等につき争うところである。そこで、タール・ピッチを含む粉塵及びその蒸気ガスの曝露と関係する職業的疾病としての食道癌等の消化器系の癌についての疫学的研究・調査について、以下の点に留意して検討することとする。

まず、その検討にあたつては、<証拠略>によれば、疫学的研究についてごく一般的にいえば、個々の疫学的研究によつて証明されるのは厳密にいえば因果関係ではなくて単なる関係までであると表現しうること、従つて、職業癌に関して疫学的研究方法を用いて因果関係を証明しようとする場合においては、その条件として個々の研究につき、〈1〉異なる研究者が様々な集団を対象にしらべても同様な結果が得られなければならないとする研究結果の普遍性、〈2〉職業癌については通常妥当な長さの潜伏期間が必要であるから原因が作用してから結果が出るまでの時間的関係、〈3〉結果の医学的妥当性、〈4〉自然発生する癌に比して職業起因性の癌の発生する割合が高いことで表されるリスクの大きさ、及び曝露量に応じて癌の発生率が変化する関係である量・反応関係の二者で構成される関係の強さ等が十分検討されなければならないこと、さらに、右リスクの大きさについては、当該職業癌の潜伏期間に見合つた調査期間がとられているか、又は母集団の大きさ等からの統計学的検定が施されているか等が注意されなければならず、同リスクがあまり大きくないときには、その研究の評価は研究の精度、普遍性等を重ねて十分検討されなければならないことが認められる。

2  タール・ピッチ等の曝露と消化器系職業癌に関連する疫学的研究について

(一)  <証拠略>によれば、タール・ピッチないしその類似物質の曝露と消化器系の職業癌そのものを目的とする疫学的研究は極めて少ないものと認められるが、これに関連する研究報告としては、鉄鋼産業の労働者についてのラドフォードの報告、ペンシルバニア州の製鉄所の労働者についてのロイド(Lloyd)及びレドモンド(Rodmond)らの報告、屋根葺職人についてのハモンド(Hamond)らの報告その他ベツキア(Vecchia)ら、グスタフソン(Gustavsson)、ハンセン(Hansen)の各報告、松島の文献中の記載、ピツツバーグ大学の調査結果が存在し、また世界保険機構(WHO)の国際癌研究機関(IARC)が逐次発行する報告書(IARCモノグラフ)のうちに関係する部分が存することは前記のとおりである。

(二)  しかしながら、<証拠略>によれば、ロイドら及びレドモンドらの報告においては、一九五三年から六一年までの観察結果では、コークス工場でコークス炉外で働いた労働者に消化器系の癌死亡が有意に高かつたこと、従事期間五年以上以下で同程度の危険であつたがその大部分が腸癌であつたこと、コークス炉労働者にはこのような多発は見いだされなかつたことが報告され、また、一九六六年までの観察結果では、五年以上の従事者群のコークス炉外労働者のみに消化器系の癌の死亡が高く口腔、咽頭部の癌は、コークス工場のコークス炉外労働者に有意な比較危険度が見られたと報告されているものの、一九七二年の製鉄所を含めたコークス炉労働者の調査結果では、腎臓癌の相対的危険度は高かつたが、消化器系の癌には有意差はなかつたことが報告されていることが認められるところである。右事実によると、ロイドの調査では、消化器系癌とタール・ピッチの曝露程度の相関関係がないことが示されているし、調査対象を広げたレドモンドらの報告ではその多発傾向は確認されていないこととなる。

ハモンドの報告においては、組合歴二〇年以上の群では、口腔、咽頭、喉頭、食道を一括した癌の死亡比は、一・九五と高く、その他胃、結腸等の癌死亡数もかなり高いとされているものの、同報告書には有意差の検定結果の記述がなく、また、その内食道癌の占める値が示されていないことも認められ、ラドフオードの報告についても、食道癌が多いとされているが、同報告には有意差を示す証拠はないことが認められる。

IARCモノグラフにおいては、タール・ピッチばかりでなく石炭煤や鉱物油の発癌性に関するものを含み、かつ消化器管に限らず皮膚、肺等の発癌性を一括して論じたものと解するのが相当であり、また同書の性質上各報告書に掲記の各文献等を超えるものとは認められないものと解される。

ベツキアらの報告は、喫煙に関するものであるところ、喫煙の疫学的見地における肺に対する発癌性については種々の報告が存することは顕著なことであるが、ただ食道癌との関係においては後記のとおり常習的飲酒を伴うときに限り発生率に比例が見られる等、その物的性質ないし曝露状況等違いから、右報告をもつて直ちに本件の参考とし得るかは疑問である。

その他シルバーステインのアメリカ合衆国自動車労働者労働組合員の死亡疫学調査、ピツツバーク大学のコークス工場従業員の疫学調査に関する各報告は、いずれも消化器系癌ないし消化管の癌との表現がとられ、これが食道癌を意識して報告されたものか否かが不明である。

他方、ドール(Doll)の報告においては、胃、一二指腸等の消化器系の癌には有意差はないとされていること、さらには大久保・土屋報告においては、食道癌と特定因子との関係はみつからなかつたし、鉄鋼業の産業群の生産部門従業員では、期待値を下回つたとされていることが各々報告されていることが認められる。

ハンセンのれき青フユームに曝露された職業コーホートにおける癌発生に関する疫学調査によれば、マスチックアスファルトの大量曝露をうけた労働者には肺癌、口腔癌と並んで食道癌の発生率が高まること、グスタフソンのスウエーデンの煙突掃除夫のコーホートにおける癌発生に関する疫学調査においては、肺癌、肝臓癌と共に食道癌の発生が高まる旨の各報告がなされていることが認められる。しかしながら、右各報告が、タール様物質の一般の曝露と職業癌としての食道癌との関係を認める普遍性のあるものと認めうるものか否かについては、弁論の全趣旨からすると、現時点の医学的知見において不明といわざるを得ない。

また<証拠略>中には、タール様物質を含む粉塵等の曝露による職業癌としての食道癌の発生に積極的な部分も存するが、<証拠略>等に照らすときには、未だ右部分が立証されたというには足りない。

四  タール様物質以外の粉塵等の曝露と消化器系癌と訴外会社の疫学的調査結果について

1  原告の主張8記載のアスベスト等の粉塵の吸入と消化器系癌の発生に関するセリコフ等の疫学調査の存在については争いのないところである。しかし、タール・ピッチの曝露と、クロム・アスベストの曝露とでは、物質の性状、曝露吸入の態様、程度等も同一とはいえないことは明かであり、また発癌の部位頻度にも差異があることも明かであるから、これらの間で相互に類推しうる条件等が明確にされていない現時点では、アスベスト等の曝露による消化器官の癌発症の危険性から、直にタール・ピッチの曝露による食道癌の発症の危険性の増大を認定することは困難である。

2  原・被告間においてその存在については争いがない、原告の主張9記載の千葉大学海老原助教授による訴外会社の粉塵作業従事者の癌による死亡調査については、成立に争いがない甲第三一号証によれば、同調査では、解析対象集団が小さいため作業年数や曝露濃度との関係(量/反応関係)の検討はなし得なかつたこと、喫煙関係等の調査はなされていない等のことが認められるので、その調査の不十分性は否めないところである。

また<証拠略>によれば、海老原は、塵自体における変異原性の有無にかかわらず、いかなる種類の粉塵の曝露によつても体内の免疫機能の異常が生じるため、直接的曝露を受ける肺のみならず食道等の消化器系等の各癌のリスクも高まる旨の見解を述べていることが認められるが、<証拠略>によれば、右見解は医学上通説的なものとはいいえず、いまだ十分に実証的裏付けはなされていないものといわざるを得ない。

また<証拠略>によれば、本件処分等にあたつて、原告側から提出された佐野意見書記載の死因統計及び疾病分類、その死因統計及び疾病分類は、その調査対象集団の範囲、数が定かでないし、情報の信頼性、網羅性も明かでない上対象群との対比、統計的分析もされていないので、これをもつて食道癌とタール・ピッチの曝露が関連することを認めるに足りない。

五  まとめ

1  タール様物質の曝露と食道癌発症の疫学的検討

一般に特定の発癌物質による発癌の危険性の高まりは、組織、器官により異なり、またその曝露状況が異なれば職業癌としての表れかたは当然異なるところ、これはタール・ピッチにおいても同様であると解される。従つて、特定の職種形態によるタール様物質の粉塵ないし蒸気ガスにより肺癌の危険性が有意に高まる疫学調査が存在するからといつて、直にタール・ピッチに曝露される労働者には職業病としての食道癌の発生の危険性も高まるものと即断できないことは当然である。

そこでまずタール様物質に曝露される職業ないし産業に従事する労働者に対する疫学的研究・調査において食道癌の発生の有意的高まりを示した報告等の有無及びその報告の普遍性が検討され、さらに当該調査対象となつた曝露形態と本件における曝露形態の類似性等が検討されるべきであるが、食道癌に関する疫学的研究・調査の現況として本件訴訟に現れている状況は前記のとおりである。それによれば、タール様物質に曝露される職業については肺癌とともに消化器系癌の発生の危険性が高まるとする疫学的調査結果の存在することは認められる。しかし、総合的に考察するときには、右消化器系癌とは、その前提がその臓器の機能上タール様物質が滞留するためその影響を大きく受ける胃等の器官、又は肺と同程度にタールのガス等の直接的曝露を受ける部位を念頭においているものと解するのが相当であるから、右をもつてしても未だ食道癌そのものについての普遍性を有する疫学的研究・調査が存するものとは判断しえない。また、前認定のとおり一部文献等には食道癌そのものについての記載があるが、それをもつても右判断を左右しない。

2  訴外山本の前記曝露と食道癌発症の個別的検討

ところで、訴外山本においてはタール・ピッチ分を含む粉塵ないしその蒸気ガスに曝露したことが認められることは、前認定のとおりであるので、同人の右曝露と食道癌との因果関係を個別的に検討する。

<証拠略>によれば、食道癌の発生機序については、他の癌と同様に正確には不明といわざるを得ない現状であるが、一般には個人の遺伝的なしい個別的特性の内因と、食道粘膜上皮に対する物理的、化学的又は機械的刺激が外因となつてその両者の複合関係から癌が発生するということは理解されているところである。

そして、訴外山本がその食道部に右外因として本件タール・ピッチの粉塵等の曝露を受けた経路は前記認定のとおりであるが、<証拠略>によれば、同経路においては、嚥下される量は呼吸された大気中の粉塵の一部であるし、食道は肺や気道と異なつて嚥下物の通過器官であつて、汚染物が滞留するところではなく、また、繊毛運動等による緩慢な排出の過程でその物質の作用が気道粘膜に持続的に働くのと同様な構造でもないこと、そして通常嚥下物の食道通過は速やかに行われるものであることが認められる。このことは、食道癌の発症があるときには、物が比較的滞留しやすい食道の生理的狭窄部にそれが多いことからも知られているところである。従つて、訴外山本が食道に嚥下作用等によつて発癌性の外来性物質としてのタール・ピッチからの作用を受けた程度は、その肺や皮膚に比して著しく少なかつたものと認められる。また、食道が右嚥下作用ではなくして、タール・ピッチを含む粉塵ないしその蒸気ガス等の直接的曝露を受ける可能性が高いのは、咽頭ないし喉頭に近いその上部であることは、理解し易いところであるが、訴外山本の解剖所見の結果によれば、訴外山本の食道癌はこれと異なつて、食道第二生理狭窄部に原発したものであることは前記認定のとおりである。

一方、<証拠略>によれば、習慣的飲酒が食道癌の発症に関連性があることは指摘されているところであり、特にそれに喫煙の習慣が伴うときには、その危険性が一層高まるとされている。例えば、平山報告(一九七六年)によれば、毎日二〇本以上喫煙でかつ毎日飲酒の比較危険率は二・四七であるとされている。そして<証拠略>によれば、訴外山本は、昭和二八年以降、紙巻煙草二〇本を喫煙し、かつ日本酒約二合の飲酒をほぼ毎日欠かさなかつたことが認められるのであるから、本件食道癌発症時にはその飲酒喫煙歴は発症リスクを高める程度に至つており、理論上そのり患の要因たりうることは否定し得ないものであることが認められる。

3  結論

以上によれば、訴外山本の食道癌が同人の業務と相当因果関係にあるものとは、未だ判断することはできない。従つて、訴外山本の食道癌による死亡が業務起因性を欠くとして、労災保険上の葬祭料、並びに遺族補償給付を支給しないとした本件処分は正当である。

よつて、本件請求は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法八九条に則つて、主文のとおり判決する。

(裁判官 長谷喜仁 廣田民生 横山厳)

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